忍者ブログ
日々のつぶやきとか覚書とか
[1]  [2]  [3
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

福岡県史の近世史料偏を借りてちょびちょび読みながら萌え転がってます。

とりあえず、個人的に重要なことメモ
・光ママのことは「母二候人」、嫁は「女房共」、娘は名前呼び、ただし「おひめ共」という記述も発見
・黒田家は厳しく禁煙、作るのも禁止、法度を破ったら成敗されるらしい
・手紙の書き方にうるさい筑前守様
・ていうか、父上とにかく口うるさい
・元服のすぐ後くらいに疱瘡を煩ったらしい忠之さま
・筑前守様は眼鏡っ子らしい

来月くらいに市博に行ったら黒田家文書買うんだ!

拍手[0回]

PR
色々計算したら着床時期1月1日になったんですけど!
ちなみに、父ちゃんも祖父ちゃんも誕生日近いので正月に仕込まれた子ですね、たぶん

それはそれとして、ちょっとした疑問ができたのでツイートまとめ

清浄院に限らずだけども、参勤交代が制度化されるまでは、大名の妻を江戸に留め置くのは大名の自主性によるもの、とあるのだけれども、この場合人質となりうる妻に「徳川の姫」は入らないよ、という話。

むしろ、徳川から嫁に出された姫は在国して各大名家を監視するのが望ましい、という考え方

元和二年の「秀忠公より安藤對馬守を上使として、長政内室は、自餘人質等に被准べからず、御暇賜り、筑前へ下らるべきよし上意有て、黄金三十枚、綿若干賜はりける。されども長政御ことはり申上られ、其まま江戸に居給ける。」という部分が気になってね

これ、むしろ、秀忠的に「お前の嫁は幕府の監視役なんだからさっさと国元に戻せ」という意味ならば、これを断ったのはどういう意味かなーと考える。

この場合、嫁というのはその個人だけではなく彼女につき従う女中や家臣も含まれると思いますが

私は元和二年のこの頃より、長政が自分の拠点を福岡から江戸に移したんじゃないかなーと考えている節があって、たぶん、ここからは江戸での滞在期間の方が長いような気がする。そして、福岡城の天守を棄却したと言われるのがこの時期のはず

清正の場合、熊本城の奥を取り仕切っていたのが清浄院で、江戸の奥を取り仕切っていたのが忠広の母親ですよ、とあるのだが、じゃあ、栄姫が江戸に上がった後の福岡の奥はどうなっていたの?っていう疑問。

ああ、そうだ。大坂の陣の直後に国に戻って例の嫌がらせ六端城を全部ぶっ壊してるんだった。

しかし、まあ、普通に考えて、栄姫を国元に戻さない代わりに、在国している監視役的な存在がいたはずだと思うのだけれども、黒田家謎だな。誰がそういう家臣なんだろう?

とりあえず、吉様が秀忠の申し出を断って嫁を江戸に留め置いた真意についてだな……

これ、どうも、幕府に媚びたわけじゃないんだよなあ。ううむ

黒田家としてはむしろ栄姫に江戸にいてもらった方が好都合なんだよね

て言うか、他の徳川家から嫁いだ諸大名の奥方って実際どれくらい在国しててどれくらい江戸におるのかなあ>参勤交代制度化以前

なんだっけかな、戦国期において、人質としての価値は、親>妻>子供だったんだよ、というのをどこかで見て、これは倫理的というか道徳的な意味で「子は自分の所有物だから殺しても同義的には有りだが、妻を殺すのは鬼畜の所業」みたいなのがあって(親はもってのほか)、

だから、たとえ政略結婚であり、妻というのが人質を差し出す相手から貰いうけた相手であっても、人質としては倫理上有効である、という考えというのを以前読んだのです。

だから、たとえ徳川家から貰いうけた妻が徳川家相手に人質にならないというのは必ずしもそうではないと思うのだけれども、奥方は在国して監視した方がいい、という考え方には納得できるので

ただ、妻を江戸に置かない家でも嫡男もしくは母親を人質として江戸には置いていたと思うので、その辺の人質価値が変わってくるのかな。でも、無嗣断絶が定められるのは参勤交代よりも後だよね?

最初に江戸に嫁を留め置いたのは藤堂高虎と言われますが、しかし、高虎の嫁は徳川とは縁もゆかりもないのであまり参考にならず

照福院(光姫)は長政が死後に筑前に下向して城内の屋敷で暮らしていたらしいですね。つまり、「藩主の母親」というのが人質として最も価値のある駒だったのではないかということを物語っているんじゃないかな

【在国】肥後加藤家・加賀前田家・播州池田家・豊前細川家 【在府】筑前黒田家・津軽家

そうか、細川家ですら嫁を江戸に差し出してなかったのか。ううむ、これはやはり「徳川の姫は人質にはならない」という説に信憑性が

(黒田家が奥方を江戸に留め置いた)理由を色々考えてみた。①嫁を介して幕府との関係を強化するため ②子供がまだ幼いので母親と引き離すのは可哀想だと思った(前科ありw) ③自分が嫁とちゅっちゅするため



真相やいかに?

拍手[0回]

新訂黒田家譜の第二巻を借りているので、飛ばし飛ばし読んでます。
前に借りた時はあまりのボリュームに飛ばしてしまった、島原らへんなんですが、
大変な萌えの宝庫でした!

長政の末息子の高政(東市正)がなんというか、父上そっくり過ぎて!

東市正は陣所遠かりし故少遅かりけれは、賊兵はや其内に少引退きぬ。然れとも猶小川のほとりに並居てしきりに鉄砲を放つ。市正いさみ進んて士卒に先たち自身下知して戦ハれる。折節信濃守攻口の井棲に賊徒火をかけけれは、戦場白日のことし、 市正着られたる一谷の冑かゝやきわたつて見えける間、敵これを目にかけて雨のふることく鉄砲を放つ。冑に三ヶ所鉄砲傷あり。近習の士共矢面に立ふさかり、我おとらしと突立けれは、賊徒辟易する處を隆政いらつてかけ出給へは、敵ハ川を渡し向こうの?濱に引退ける。 此時隆政家人或討死し或疵を蒙る者多し。隆政いよいよ進んて川を越、向の敵を討んとせられけるを、吉田右馬大夫頻にいさめけるに、猶かゝらんとせられけれハ、右馬大夫市正の鎧にとりつき引とゝめける。右馬大夫は先ほと敵のなけける石にて歯を打くたかれけるか、此時口より流るゝ血、市正着られたる白羅紗の羽織に染て紅になりけれは、殊にはなやかにみえたまふ。はや夜も明方になり、賊兵も城へ引とりけれは、市正も人敷を柵内へ打入られける。上使市正の勇戦を感し、且羽織の血に染たるを見て、手はをハれす候や。動見事に候とそいはれける。

この子、これが初陣なんですが!
行動パターンが父上そっくりで、にやにやが止まらん。可愛いなあ。


こんなシーンも

(高政は)勇気無籰の将なれハ、諸士と共に石壁に上らんとせられけるを、家人等しきりに是をとゝめ~


ついでに、忠之様も突撃しようとしますが、

忠之の本陣は甚遠かりしかとも 忠之の本陣より夜討来たる所まて其間凡十町徐あり。早々かけつけ給ひけるに、敵はやうやう城際まで引とりける。忠之は敵を追て直に城へ付こみ乗とるへきよし、郡正大夫にのたまひけれは、正大夫うけたまハり、それもよろしく候ハんすれ共、か様の事は功者入申事に候へは、美作に御相談然るへきよし申しけれハ、黒田美作にいかゝあるへきととひ給ふ。美作申しけるハ、城中にいかなる謀計あるへきもはかりかたく候。其上いまた夜も明す先くらく候へハ、城へ乗込候事ハ甚危き事にて候間、御無用に候由申。然とも猶忠之かけ出んとし給ふを、正大夫むかふにさしふさかり、美作詞を盡して再三とゝめ申けれは、美作かいさめにしたかひ、とゝまり給ひぬ。此時高尾彌五左衛門、忠之の馬の口にすかり居けるを、度々はなし候へと仰られつよく打給へともはなさす。美作是を見て、彌五左衛門御馬の口はなすなと詞をかけゝる。彌五左衛門始終馬にすかり居ける。忠之後に此事甚感称し給ひける。

結局家臣に止められて思い止まるw
はじけ方が足りないぜー、忠之様!

黒田家譜は忠之さまをどうしたいの?と言いたくなるくらいに、喜怒哀楽激しい忠之様の萌え描写たっぷりなので、ぜひ皆さん読んでくださいね^^

拍手[0回]

たぶん、1570年前後生まれ。
1600年、栄姫について保科家からやってくる。
恐らく栄姫と一緒に江戸に上がる。
それからずっと江戸詰め。
長政の遺言で「江戸惣賄(つまり江戸にける黒田家経理部長)」に指名される。
このとき500石の加増を受けて1000石。
黒田騒動では忠之からの一成の嫌疑を晴らすために奔走する。
更に忠之の無罪を勝ち取るために根回しに走る。
目を病んで67歳で筑前に下向して出家、「性安」と号す。
息子は忠兵衛。
ここから斎藤氏は大体江戸留守居役。

下向したのは大涼院様が亡くなったから、とすると、彼女と年の差16歳ですかね。

幼少から面倒を見ていた姫様の嫁入りについて黒田家まで来て、
姫様の夫が自分とほぼ同じ年頃だったり、
その姫様が子供を産んで立派に武家の奥方を務めあげたりなどするさまを
ずっとそばで見守っていたとすると、なんていうかすごくぐっとくるよね、斎藤さん

そんなわけで、斎藤さん準レギュラー化しようかな

拍手[0回]

ツイッターで一気に語ってしまったので、拾っておく。
私の思う後藤基次像というのがたぶん世間のイメージとは全然違っていて、だから、逆に創作しにくい。
基本的に出所のわからん彼の逸話はほぼ信用してませんので。

 

拍手[1回]

忍者ブログ [PR]
ついった
    follow me on Twitter
    プロフィール
    HN:
    歌猫いろは
    性別:
    女性
    自己紹介:
    蓬庵様の嫁になりたい。
    黒田大河の実現を夢見るオタク歴10年の♀でございます。
    バーコード
    ブログ内検索